中国文芸研究会11月例会記録

11月28日 於大阪経済大学 出席者23名


@青野繁治:施蟄存「阿襤公主」と郭沫若の「孔雀胆」
A森岡優紀:「言葉」と「現実」の関係から見る蘇童の小説


 @は、施蟄存が1931年に発表した「孔雀胆」(1年後に「阿襤公主」と改題)と郭沫若がその11年後の1942年に発表した劇本『孔雀胆』とを通して、両作家の食い違いと、そこからかいま見える両作家の感情的なもつれを明らかにしようとする発表であった。

 報告者によれば、両作品は同じ題材を取っているため、一定の類似性は当然であるが、郭沫若の『孔雀胆』には、施蟄存が歴史書には書かれていない独自に創り出した箇所においてすらも多くの類似点が含まれている、とする。だが、郭沫若は施蟄存の小説を読まずに劇本を書いたと述べているため、盗作したという明言はできない。

 施蟄存が郭沫若をどのように見ていたか、施蟄存の発言などから検討すると、その感情は、けして良いものとは言えない。実際、施蟄存と郭沫若の関わりはいつも不幸なもので、そこから作家の感情的なもつれをかいまみることができる、とした。

 以上のような報告に対して、まず、これは報告者自身が指摘していたことであったが、両作家の感情のもつれ、作品が盗作であるか否かを明らかにして、どういった文学的意味があるのか疑問が投げかけられた。

 また、もう少し厳密に、歴史学的な考証によって両作品の関係は明らかになるのではないかという考えもだされた。これに対して、報告者は、もとになっている歴史書自体が信用に足るものではないため、困難であることを述べた。

 Aは、蘇童の小説が持っているポストモダニズム的性質を明らかにしようとする報告といえる。

 報告者によると、「現実」という対象物がまずあり、それを「言葉」で表現しようとしていたモダニズムやリアリズム小説とは違って、蘇童の小説は、「現実」があるということを前提とせずに小説を書いているとする。あるのは、「言葉」によって構築される虚構のみであると。このような世界観は、現代思想ともつながってくるものであり、中国では、馬原との繋がりがあることを指摘した。

 この世界観を発展させ、蘇童は何かを描くのではなく、自分の中にある感覚や心理を描くために風景を用いるようになる。それは作品から具体性を取り去り、感覚的な世界が作品内に構築されることとなった。

 以上の報告に対し、中国における西洋思想や文学の受容が、段階を踏んで流入されたのではなく、一度にモダニズムもポストモダニズムも入ってきたため、それらを分離して論じるのは問題があるのではないかと疑問が出された。

 また、先鋒派作家と呼ばれる作家たち(格非・蘇童・余華)には個性がないこと、及び、「現実」を前提とせず自らの感覚に埋没するという姿勢は、作家自身の成長に支障をきたすのではないかという危惧も出された。

 今回の報告に対する個人的な感想としては、時代背景や史実、典故、影響関係、作家の生い立ちや発言、思想や理論、そういったあらゆる文学への知の手段から逃れていくところに作家の作家たる所以があり、その知の領域から逃れる作家の臭覚とでも言うようななにものかを見ていくことが、作家、ひいては文学を見ていくことではないかという当然を再認識させられる発表で興味深かった。

 二次会は、上新庄駅前『田舎』にて行われた。(永井)


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